Scientia est potentia. 知は力なり

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Francis Bacon

語彙と文法

「スキエンティア・エスト・ポテンティア」と読みます。
scientia は第1変化名詞scientia,-ae f.(知識)の単数・主格です。
est は不規則動詞sum,esse(である)の直説法・現在、3人称単数です。
potentia は第1変化名詞potentia,-ae f.(力)の単数・主格です。
主語は scientia 、補語は potentia と考えられます。文法的には主語と補語を入れ替えても問題はありませんが、意味が通りません。
「知識は力である」という意味になります。

「知識と科学」(エッセイ)

「知識」は英語でknowledge という。これは「知る」を意味する動詞 know の名詞形である。knowledge を用いた英語表現に「知は力なり」(Knowledge is power.)というのがあるが、これはScientia est potentia.(スキエンティア・エスト・ポテンティア)というラテン語の英訳である。この表現をホームページの「ラテン語格言集」に掲載したところ、高校生から次の質問を電子メールでいただいた。

Q. ラテン語のscientiaと英語のscienceには何かつながりがあるのですか。スペルから二つの単語につながりがあるというのは想像がつくのですが。

この質問者は、なかなか鋭い勘をしておられる。science(科学)の語源はラテン語のscientia(知識)であり、scientia(スキエンティア)はscio(スキオー=知る)の派生語である 。しかし、「発音のつながり」という点では、英語の「サイエンス」とラテン語の「スキエンティア」は大きく異なっている。サイエンスに限らず、英語の発音は綴り字どおりに発音しない例に事欠かない。それに対し、ラテン語は、ローマ字どおりに発音すれば基本的にオーケーである 。ラテン語というとなんだか難しそうであるが、少なくとも発音に関する限り、ローマ字読みでよい。

日本では、小学校でラテン語の発音の仕方(=ローマ字読み)を学習した後、中学に入ると英語の発音を習うことになる。つまり、発音に関して日本人にとって一番なじみのある言語(ラテン語)から一番難解な言語(英語)へと移行するので、中学校で英語を学ぶ際には、たいへんなカルチャーショックを受けることになる 。

さて、本題に戻ろう。ラテン語のscioと関連した英単語としては、まずconscience がある 。これは「良心」という訳語がふつう当てられるが、語源に注意すれば「正しいことを知っている」というニュアンスをもつことがわかる。次に、形容詞として conscious に着目すると、この単語は「知覚のある、意識している」という意味の形容詞であるが、綴り字にラテン語の scio の名残が見えることから、これまた「何かを知っている、気づいている」というニュアンスをもつことが窺える。

次に、scienceの反意語としてnescience(無知、無学)という言葉がある。接頭辞のneがつくことにより、science(知ること)の意味が打ち消されている。またomniscienceといえば「全知、博識」を意味する。ラテン語で「すべて」を意味するomnis(オムニス)がscienceの前についている。同様にprescienceという一見難解な英単語も、「前もって」を意味するpreという接頭辞とscienceに分解することにより「前もって知ること」、すなわち「予知、先見」といった意味をもつことがわかる。

ところで、冒頭の Knowledge is power. という言葉は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561~1626)の言葉である 。ベーコンにとって、「知識(knowledge)」は技術と結びつき、人間生活に利便をもたらすものであり、人間が「知識」を利用して自然を支配することは、「最も健全で崇高な野心」と位置づけられた。だが、このような素朴な「知識」観は、その後の「科学万能の信仰」を生み、やがて「自然破壊」と呼ばれる問題を多方面で引き起こすことになる。このことは「目に見える」問題だけに、現在、地球規模での批判にさらされている。

しかし、ベーコン流の考え方は、今も我々の生活のあちこちで、いわば「目に見えない形で」影響を及ぼしていることに気づかされる。彼の考え方の特徴を浮き彫りにする一文を紹介しよう。

…it should be said frankly that that wisdom which we imbibed principally from the Greeks seems merely the boyhood of knowledge, with the characteristics of boys, that it is good at chattering, but immature and unable to generate.

ここでは、ギリシア人から受け継いだwisdom (知恵)について、それが「知識の少年段階」(the boyhood of knowledge)に過ぎないものであると批判されている。「おしゃべり は得意だが、モノを生み出すことにかけては無力である」とも。逆に、具体的にモノを生み出す(generate)知識こそ「知識の大人の段階」というわけである。

だが、人がwisdom の声に耳を傾け、モノを作ることの根元的意味を問うとき、それは一見面倒な議論に聞こえるとしても、けっして未熟な「子供のおしゃべり」ではない。逆に、このような哲学的問いをなおざりにし、例えば、売れるモノを低コストで大量に作ることに専念した結果、日本の高度成長は短期間で達成されたのである。と同時に、自然破壊も、経済危機も、あえて言えば、教育の荒廃も、もはや取り返しのつかないところまで来てしまった。

さて、このような現状をふまえてベーコンの言葉(Knowledge is power.)に向き合うとき、「たしかにknowledge は power であるが、それを善用するかどうかは各人のwisdom 次第である」という常識的な反論が思い浮かぶのである。ところで、「知識」を善用する意志であるとか、wisdom を重視しようとする態度は、ベーコンが批判したまさしくギリシア以来の思想の伝統に相通じるものである。

人間は自然の法則――太陽や星の運行、四季の移り変わりなど自然界の秩序――を知ることによって、海も渡れるし食べ物を育てることも可能となる。このことは知識と技術によって高度の文明を築いたギリシア人、ローマ人にとっては自明のことであったが 、彼らは宇宙の秩序を神と同一視し、神の正義に通じる人間の英知や倫理が知識と技術を正しく導くことも信じていた。また、「そのための教育」というものが何より大切に考えられたのである。

「知識」の問題もそれを教える「教育」の問題も、いったん現代の常識から離れ、その根元的意義を問い直す時期に来ていると思われる。また、その問いは人間の wisdom の錬磨に関わる以上、けっして無益なものとは思われない。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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