才能と好奇心

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才能と好奇心

世間では一般に、才能があるとかないとか口にする。だが、才能は誰にでもあると思われる。そして才能には無限の種類がある。英語では、才能のことをgiftともabilityともいうが 、天から与えられた「贈り物」は、何かを行う「可能性」として各自に備わっている 。エマソンは「才能は天から与えられた使命だ」と喝破した 。

したがって「私には才能がない」 という言葉は、英語に直せば「私には何もする可能性が与えられていない」と口にするのに等しい。問題は、才能の有無ではなく、それをどれだけ磨き上げるかということである。ゲーテも「天才とは努力する才能である」と述べている 。

繰り返すが、人間には無限の才能が与えられている。もし、特定の才能をできるだけ短期間に伸ばすことが教育の目的であると信じられたなら、その結果、伸びきったゴムのような生徒が増えるのは当然である。一本のゴムを無理に伸ばせばすぐに切れるが、3本、4本とたばねていけば、容易に切れるものではない。「好奇心」(英語だと curiosity)とは、このように多くの種類のゴムを伸ばす力をさすといってよいかもしれない。

伸ばしたゴムの「長さ」だけを問題にするのなら、特定の一本のゴムに注目し、それを伸ばした方が、早くしかも長く伸ばすことは容易に出来るだろう。一方、複数のゴムを同時に伸ばそうとすれば、引っ張る力はたいへん大きなものとなる。

では、人間は、この抵抗感を苦痛と感じるのか、喜びと感じるのか。ここが運命の分かれ目である。筋肉トレーニング に励む人がそうであるように、人間は徐々に負荷を高めることに喜びを見出すことも可能である。ギリシアの詩人ヘシオドスは、「神は幸福の前に汗を置いた」と述べている 。教育とは、この知的筋力、すなわち「好奇心」に刺激を与え、活性化させることを目的とするものであり、その結果得られるものは、弾力のあるしなやかな知性ということになろう。

ところで、ローマの詩人ホラーティウスは、偉大な詩人に必要なのは、才能か努力か?と自問し、「ともに必要」と答えている 。簡単に言えば、才能のない人間はいくら努力しても無駄という意味にもとれる。たしかにそうかもしれない。だが、このことを私の「ゴムひも理論」に照らすなら、伸ばすべき才能の数は無数にあるのだから、「一つ」が駄目でも簡単にあきらめるな、となる。

ここで冒頭のエマソンの言葉に戻ろう。「天から与えられた使命」とは、英語で言えば mission (ミッション)のことである 。比喩的に言えば、天に口があって「おまえはこう生きよ」と命令している様子を想像することが出来る。自分を見つめ、その声が聞こえるかどうかがポイントとなる。

そう考えれば、才能とは、うわべの特徴(学校の成績や身体能力など)に関わるというより、人間の生き方に深く関わる言葉と考えたようがよさそうである。事実、エマソンの言葉はこう続く、「自分に対していっさいの空間が開かれるような方向がひとつはあるものだ」と。才能を伸ばすとは、エマソンにいわせれば、自分の生きる道を深く問い直すことと別のことではなかった。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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