美術・絵画

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美術・絵画

「美」の文字は、元来「大きくて立派な羊」を意味した。そこから「うまい、うつくしい」の意味を表すようになった。「美酒」というのは、「うまい酒」のことである 。

「美」は英語でbeauty というが 、ルーツはラテン語の bellus (美しい)に遡る。ラテン語で「善」を意味するbonum (ボヌム)は bellus(ベッルス)と語源的に関連している 。「美しいもの」は「善いもの」であり 、「善いもの」は同時に「美しい」という考え方、また、ここに「真 」という言葉を加え、「真・善・美」の理想のあり方を追求したのがギリシア人であった。

bonum(善)の形容詞 bonus (善い)は英語でボーナスと発音するが、日本人にとっては「賞与」という意味でおなじみの言葉である。一方、bellus (美しい)の名詞形は理論的にはbellumとなるが、これは「美」ではなく「戦争」を意味する。つまりbellus の名詞形はない。「美」を意味する名詞としては、別語源の decor (デコル) や venustas(ウェヌスタース) が用いられる。

ローマの建築家ウィトルーウィウス は、建築の三要素としてutilitas(用)、firmitas(強)、venustas(美)を挙げたが、彼は、機能、構造、美しさの三つの要素が優れた建築を作り上げる条件と考えたのである。ちなみにvenustas は、「美の女神」ウェヌス(英語読みではビーナス)に由来する言葉である。

「絵画」は「美」を表現する芸術の一様式とみなしうるが、ラスコーやアルタミラの洞窟絵画の例をひくまでもなく、人類は文字の発明以前から絵を描いてきた 。「絵画」に相当する英語の「ピクチャー(picture)」は、ラテン語の pictura(ピクトゥーラ)――「彩色する」という動詞 pingo (ピンゴー)から作られた名詞形――に由来する 。

「絵画」といえば、『万葉集』巻二〇に次のような歌がある。

わが妻も画(え)にかきとらむ暇(いつま)もが、旅ゆく我(あれ)は見つつ偲(しの)はむ

この歌に出てくる「画」は、英語のpicture に該当するのだろうか 。現代であれば、「旅ゆくあれ我」は「絵」ではなく「写真」を携えていくところかもしれない。この歌が示唆するように、「絵」にせよ「写真」にせよ、「偲ぶ」相手をいつでもどこでも「イメージ(image)」として呼び起こす力を持っている。

image の語源はラテン語の imago (イマーゴー)である。「実物に似た姿、面影」という意味を持っており、「模倣する」という意味のラテン語 imitor (イミトル)とつながりを持っている 。「実物に似た姿」(imago)を心の中に生み出すこと――つまり「心に描くこと」――を英語ではimagine (イマジン=想像する)という。その名詞形が imagination(想像力)である。

ゴーギャン(1848-1903) は、「見るためには目をつむる」(I shut my eyes in order to see.)という言葉を残した。描く対象をよく見るには、心の目で見なければならない――すなわち「想像力」(imagination)を生き生きと発揮させねばならない――という逆説である。

この世に存在する事物は、それだけで美しいのではなく、画家や詩人の想像力の発揮をもって、初めて美しいものと感じられる。このことについて、モームは『人間の絆』(Of Human Bondage)の中で、主人公に次のように語らせている。

「僕が初めてパリへ行ったとき、確かクラトンだったと思うが、美とは、画家や詩人を待って初めて、物の中に生まれるのだというような 趣旨のことで、長広舌を揮ったのを思い出すよ。美を創造するのは、画家や詩人なんだ。その物自体じゃ、ジョットーの鐘楼も、工場の煙突も、区別はない。

結局、美しいものというのは、それが次々と後の時代までも、人の心に起こす深い感動によって、だんだんと豊かになるんだって。古いものが、新しいものよりも美しいということになる。

たとえば、あの『ギリシア古瓶賦』だ。あれは、書かれたときよりも、今の方がよっぽど美しいのだ。というのは、この百年間に、多くの恋人達があれを読み、また、心に悩みを持った人たちが、絶えずあの詩に慰めを見出しているからなんだ。」(64章)

ここでモームは、キーツの『ギリシア古瓶賦』を「古典」として取り上げ、美の創造と伝統の継承の問題を取り扱っている。すなわち、美を創造するのも人間なら、それを感動によって共有し、次の時代に伝えていくのも人間であり、古いもの、つまり古典は後世の「鑑賞」――「解釈」といってもよい――によって、日々豊かになり、美しくなっていく、と。

「伝統」にあたる英語の tradition にせよ、「解釈」にあたる英語の interpretation にせよ、共に語源はラテン語であって、前者は「手渡されたもの」、後者は「二者の仲介を務める」という意味をもっている。つまり、「伝統」とは過去から現在に「手渡された」人類の宝であり、「より豊かなもの」として未来に継承されるべきもののことである。現代人による「解釈」とは、いわば「過去と未来の仲介を務める」行為にほかならない 。

ところで、このような「美の創造と伝統の継承」という問題は、モームのふれた『ギリシア古瓶賦』における主題と一致しているように思われる。

キーツはこの詩の中で「心の耳で聞く調べの美しさ」にふれて次のように歌っている。

Heard melodies are sweet, but those unheard Are sweeter. 耳に聞こえる調べは美しい。 だが、耳に聞こえない調べはもっと美しい。

人間は、「今」聞こえてくる音色だけに美を感じるのではない。「耳に聞こえない調べ」とは遠い昔に歌われた音色、すなわち「古典」を意味するだろう。絵画にせよ音楽にせよ、古典と呼ばれる作品に普遍的な美を見出し、それを鑑賞するためには、なによりも心の目と耳を大きく開く必要がある。

なお、この作品は次のように締めくくられている。

‘Beauty is truth, truth beauty,’-that is all Ye know on earth, and all ye need to know. 「美は真であり、真は美である」―これは地上にて汝らの知る一切であり、知るべきすべてである。

キーツ

キーツ

初めに触れたように、「真、善、美」の理想の在り方を追求したのがギリシア精神であり、この伝統を「今」に蘇らせようとしたのが、古くはローマ人であった。その後ルネサンス時代を経ながらも、この伝統解釈の歴史は、ヨーロッパ諸国の中で連綿と美の伝統を形成してきたのである。

モームが示唆したように、古典は、個々の作品がいかに優れたものであったとしても、後世の解釈を欠いては、けっして現代に伝わることはなかった。逆にいえば、はるか二千年以上昔の作品に「今」接することの出来る意味を、我々現代人は一度かみしめる必要があると思われる。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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