現代に生きる古典語(1)

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古典という言葉から皆さんは何を連想しますか。漢文、それとも古 文?古典の英語訳はクラシック(classic)ですが、この言葉には 「一流の、最高水準の」という意味が込められています。名詞です と「ギリシア・ローマの古典」と英和辞書には記されいますね。今 日は、そういった西洋の古典文化(ギリシア・ローマ文化)につい て、簡単なお話をしたいと思います。
ある国の文化の影響は、日常の言葉をみるとよくわかります。ちょ うど私達の使う日本語には、たくさんの漢字やカタカナが見られる ように、英語の文章には、数多くのギリシア・ローマ時代の言葉の 影響が見つかります。

例えば朝バスに乗ります。バスのつづりはbusと書きますね。busを ローマ字風に「ブス」と発音して怒られたことはないでしょうか。 これはラテン語で「みんなのために」を意味するomnibus(オムニブ ス)からつくられた言葉です。今でも3つくらいのお話を1セット にした映画を「オムニバス形式の映画」と呼ぶことがあります。ち なみに、ラテン語は小学校で習ったローマ字の発音で読めばいいの です。ラテン語は古代ローマの言語だったのですから、「ローマ (の)字」でいいわけです。

さて、バスに乗って学校に着きました。学校は英語でschoolといい ますね。語源を聞くとびっくりしますよ。ギリシア語で「暇」を意 味する「スコレー」がschoolの語源です。今の学校はちっとも暇 じゃないって?じゃあそれは本当の「学校」じゃない(笑)。 「暇」の反対語は「多忙」ですね。「忙しい」といえば英語は busy。名詞はビジネスマンのbusiness。今の学生は「ビジネスマ ン」のように朝から晩まで「忙しい」。

一方businessmanと対にして用いられる語がscholar(学者)です。 今紹介したギリシア語の「スコレー」をもとにして、「スカラー」 という英語ができたというわけです。「学者」というより「暇人」 といった方が語源を尊重した訳語になります。お金のためでなく、 真理のために学ぼうとする人のことをスカラーと呼ぶのです。そう 考えると、スカラーに老若男女の別はありません。「学校」とは、 本来そうしたスカラーの出会いの場でありました。

「学校」の話が出たついでに、今度は「教育」(education)という 語について考えてみましょう。educationの動詞形はeducateです が、ラテン語で「外に引き出す」を意味します。つまり、生徒一人 一人の中に潜んでいる才能を外に引き出す、というのが本来の意味 なのです。「教え込む」とか「詰め込む」やり方はエデュケイショ ンの場に似つかわしくありません。事実、黒板のデータをせっせと ノートに写すことは、首の上下運動であって、本当の意味で学ぶこ とにはなりません。

ではエデュケイションにおいては、何が重視されるのか、といえば 「表現」(expression)と「印象」(impression)であります。こ のことについて、英語の語源面から、若干コメントしておく必要が あります。日本語で、「表現」と「印象」は、ペアで論じられるこ とはあまりないのですが、英語の語源でみれば、二つは表裏一体の 関係にあります。

「印象」即ち、インプレッションとは、感動的な情報(文字、色、 音、映像、その他)が胸の中に刻み込まれることを意味します。 im-pressionのつづりは、胸の中に(imは「中で」という意味)感動 を刻み込む力(pressionのpressは圧力を加える意味)を表していま す。この力がある限界点に達するとき、ちょうどミカンを押しつけ ると果汁がほとばしり出るように、胸の中の感動は体の外に向かっ て飛び出ようとします。このように内面の深い感動が何らかの形式 を与えられて「外に」(「外に」とは、ex-pressionのexに込められ た意味です)現れるとき、それが「表現」と呼びうるものとなるの です。

私はこのような「表現」を通して、めいめいが自分の才能、個性を 自覚できるのではないかと考えます。我々の個性は互いに異なって いるといわれますが、多くの人は、学校に行くと、自分が何者なの か、何のために生きているのかわからないといいます。それは「印 象」に残る経験が少ないためか、「印象」をもとに自己を「表現」 する機会が少ないためか、詳しい事情はよくわかりませんが、少な くとも今の日本の学校教育において、「暗記」は重視しても「印 象」と「表現」は軽んずる、これだけは確かなようです。

一方、インターネットで実現しつつある「学びの場」は、一方通行 的な「授業」とは異なり、「暗記」を強制される場ではありませ ん。煩雑なデータは、CD-ROMかハードディスクに保存しておけばよ いでしょう。ホームページにせよ、メーリングリストの発言にせ よ、人間の数だけ異なる意見が実在します。色とりどりの花畑のよ うなものです。我々は自分の好みに合わせて、好きな花を摘めばい いのです。

私はインターネットの「学びの場」こそ、初めに触れたスクールの 本来の意味(「暇な場所」)をとどめているのではないかと思いま す。学びたいことをいつでも学べる環境がここにはあります。今を 精いっぱい生きる知恵として、古代ギリシア人は「汝自らを知れ」 という言葉を残しましたが、インターネットはギリシア人のいう 「自分探し」の場所でもあります。同じ情報が万人に同じ印象を残 し、同じ表現を各人に促すのではありません。

サイバースペースでは、自分の「印象」をもとにした自分の側から の働きかけ=「表現」を絶えず求められます(例えば全く同一の ホームページはありません)。個々の表現を通じて、私たちは自分 にしか生み出すことのできない固有の価値を発見できます。このか けがえのない経験を重ねることで、私達は己の個性を認識し、生き る意味を味わうことができるのだと思います。

以上、バスの話からインターネットの話まで、思いつくまま書いて きましたが、2000年以上昔のギリシア人・ローマ人の言葉には、時 空を越えて私たちの胸に飛び込んでくる何かがあると思わずにいら れません。みなさんも、インターネットを通して、ぜひ「自分探 し」の旅に出かけて下さい。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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