『農耕詩』第三巻エピローグに見られる疫病の記述について

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『農耕詩』第三巻エピローグに見られる疫病の記述について

山下太郎  

一  序

  ウェルギリウスが『農耕詩』に盛り込んだ主題は複雑かつ多岐に渡る。ある一つの結論を得たと思った刹那、それとまったく矛盾する表現に遭遇する、といった驚きはこの詩に接した読者ならだれもが経験することだろう。従来多くの研究者は、全行数の約半分近くを占める「脱線話」(digression)に特別の関心を寄せ、解釈の手掛かりを求めてきた(1)本稿で扱う第三巻エピローグの「ノリクムの疫病」(3.470-566)もこの「脱線話」のひとつである。このエピソードは、かつてノリクムと呼ばれる土地で疫病が発生し、多くの家畜が死んだという話を伝えるものであるが、基本的にはルクレティウスの作品『万物の本性について』第六巻エピローグの「アテナイの疫病」(6.1138f.)を模倣したものといわれている(2)。本稿では「ノリクムの疫病」において詩人がいかにルクレティウスの叙述を改変しているのか、といった点に問題を絞ってテキストを検討していくことにする。この分析を通じて、ルクレティウスの表現を第三巻末において想起させた詩人の真意を探り、併せてこの作品の主題を問う上での手がかりを提供することにしたい。

二 第一巻との関連

 『農耕詩』第三巻エピローグ(3)は、次のように始まっている(470-473)。

海から生じて嵐(hiemem)を巻き起こす竜巻(turbo)も、家畜の疫病ほど、数多く頻繁に荒れ狂うことはない。病気はひとつの体だけを襲うのではない。突然夏の牧場全体を襲うのだ。群れの若い希望の子も老いた家畜も、徹頭徹尾襲いかかる。

 ここでは自然界の嵐(3.470 turbo)と比較する形で家畜の疫病(3.471 pecudum pestes)が語られており、第一巻の「嵐の記述」(1.316ff.)と共通する表現が認められる(4)。詩人は嵐について、「このように黒い竜巻(turbine)を伴った嵐(hiems)は、軽い麦わらや刈株を宙に舞い上げる」(1.320-21)と述べているが、表現上1.320 turbineと3.470 turbo、1.321 hiemsと3.470 hiememの対応は明瞭である。また、この作品におけるturboの使用例は、この二箇所のみである点も注目される。内容に関して言えば、第一巻で嵐は「豊かな実りと牛の労を洗い流す」(325 6)と言われるように、第三巻エピローグにおいても、疫病の蔓延する中、「労働と善行はなんの役に立つのか」(525)と問われている(5)。つまり、嵐や疫病は、農夫の稔り多い労働を阻害する要因として語られる点で共通する。

 しかし、両者の文脈には微妙なずれが認められる。第一巻において、詩人はユピテルが嵐を引き起こす主体であると述べ(cf.328ff.)、その被害を抑止する方策として(一)星座を観察すること(335 sidera serua)、(二)何よりも神々を敬うこと(338 in primis uenerare deos)の必要性を強調する(6)。続く箇所では、豊穣の女神ケレスを讃える祭りに言及し(338 50)、人間が天候の変化を確かな兆(signum)から予知できるよう父なる神(ユピテル)が定めていると言う(7)(351ff.)。

我々がこれらのこと――暑さと雨と、寒さを運んでくる風――を、確かな兆から予知できるようにと、父なる神はみずから、月々のめぐりにおいて、その形が何を意味するのか、どのような予兆とともに南風が襲来するのか、農夫はいつもどのような前兆を見ることによって、家畜を小屋の近くに留めておくべきかを定められた。

 この引用箇所において、351 utの導く従属文はユピテルの狙いを具体的に示しているが、このとき、第一巻118以下の「脱線話」(8)――労働の由来をユピテルの意志との関連で説いている――における類似した表現が想起される(9)。即ち、ユピテルが黄金時代を終結させ、人間に過酷な労働を強いるようになったのは、人間が「思慮を重ね、経験を通じて様々な技術を生み出すため」(1.133)と説明されている。その過程で「様々な技術が生まれた。過酷な状況の中で困窮が駆り立てながら、厳しい労働がすべてに打ち勝った。」(145-6)と言われるのである。だが難局を切り開くのは人間の技術や労働ばかりではない。詩人は神的助力について、次のように述べている(1.147-149)。

まず初めに、ケレスが人間に鉄で(10)大地を耕すことを教えた。それは、神聖な森の樫やヤマモモが欠乏し、ドドナが生活の糧を与えなくなったときのこと。

 新しい技術の発見のかげには常に神の助力がある、という認識は第一巻の序歌において明瞭に認められる(11) 。例えばmunus (7,12)、numina (10)、fauens (18)等の言葉は、神の人間への好意や援助を示している。またネプトゥヌス(12-14)、ミネルウァ(18-9)、トリプトレムス(19)は、それぞれ馬、オリーブ、鋤を初めて地上にもたらした神として示され、ケレスやリベルとともに、農耕技術の発展に深く関わっていることがわかる。これらの神の力とは、耕地を保護し、作物を養い、天から豊かに雨を降らせるものである(21-3)。

すべての男神と女神よ、大地を守る熱意ある神々よ、種を蒔かなくても新たな作物を養う神々よ、天から作物に豊かに雨を降らせる神々よ。

大地が作物を生み出す可能性は、人間が経験から探し当てたものであり、自らの力で作り出したものではない。大地の存在や、天の運行も人間の発明でも工夫でもない。しかしこの神の助力だけで、大地は豊かな実りを生むのではない。序歌の冒頭で、「何が豊かな実りを生むのか、いかなる星座のもとで大地を耕すべきか」(1-2)と問われているが、農夫は天の運行に注意すべきことが示される。さらに、より安定した収穫を得るために、自然法則に関する様々な知識を学ぶことが要求されている(1.50-53)。

だが未知の大地を鉄で掘り返す以前に、風と天の様々な習性、父祖より伝わる土地の耕作法やその特徴、各々の地域が何を生み、何を拒むかを前もって知るよう努力せよ(12)。

 このように見るとき、第一巻の「嵐の記述」は、単に自然の脅威を強調するだけでなく、「不安によって人間精神を研ぎ澄まし」(1.123)、技術の発明や発見を促すユピテルの意志を色濃く反映していることがわかる。即ち、嵐という自然現象は、ユピテルが人間に与えた「不安」(13)の一つと解すことができるだろう。このとき、嵐のエピソードは、作品の主題と無理なく結びつくことになる。これに対し第三巻エピローグでは、疫病の渦中におけるいかなる人間の行為も功を奏しないことがいわれ(3.549 quaesitaeque nocent artes)(14)、神に祈っても無益であることが次のように強調されている(3. 486-93)。

しばしば神々への儀式のさ中、祭壇に立たされた犠牲獣は、白い細帯をもつ羊毛の帯が巻かれる間、手間取る執行者らの間で死んで倒れる。あるいはもしそれ以前に神官が刀で屠り、取り出した内臓を捧げても、祭壇は燃えあがらない。予言者は神託を問われても答えることができないし、喉をかき切っても、用いた刀はほとんど血で濡れず、砂の表面は乾いたまま血のりで黒ずんでいる(15)。

Thomasによれば、ここに見られる「宗教的救済の無効」というモチーフは、「ノリクムの疫病」に先行する箇所で、すでに暗示されていると言う(16)。即ち、詩人は「君に病気の原因(causas)と兆候(signa)についても教えよう(17)」(3.440 )と述べた上で、次のような主張を行っている(452-456)。

だが、もしだれかが刃物で潰瘍の頭を切り取ることができたなら、このときほど好都合な治療結果は他に期待できない。病は隠すことで成長し、生き続けるのだ(18)。牧人が傷に対する治療の手を拒み、神々によりよき兆しをと祈りつつ座り込む間に。

この表現は、第一巻「嵐の記述」に見られる「まず何よりも神々を敬え」(19)(1.338)というメッセージと矛盾するように見える。Thomasはこの点をふまえ、農耕と祈りは本来無関係であり、自然法則の正しい知識と理解を通じてこそ、農夫にとっての成功はもたらされると言う(20)。一方Williamsは、(Thomasの重視しない)敬神のテーマこそ『農耕詩』全体の主題を要約していると解する(21)。即ち、敬虔な祈りに満ちた農夫の労働が、農耕社会の成功をもたらす鍵とみなす解釈である。だが、今引用した例は、病気の治療法が「有効である」ケースに他ならず(22)、対して、「ノリクムの疫病」においては、いかなる人間の努力も意味をなさない絶望的状況が描かれている。従って、人間の「知識」や「技術」を重視するにせよ、「敬神の念」を重視するにせよ、この作品のメッセージをオプティミスティックに解釈する立場にとって、第三巻エピソードは、作品の統一的理解をはばむ「矛盾に満ちたエピソード」(23)であることに変わりはない。他方、第三巻のメッセージを重視する立場にとっては、例えば、農耕生活を賛美した第二巻エピローグの記述が、「矛盾したエピソード」ということになる。 ここで注目したいことは、この詩に見られるルクレティウスの影響である。コメンタリー等で指摘されるように、第三巻「ノリクムの疫病」は、先に見た第一巻の「嵐の記述」とともに、ルクレティウスの影響が色濃く認められる(24)。以下この点をテキストに即して確認することによって、新しい解釈の方向を探りたい。

三 ルクレティウスとの関連

 『農耕詩』第一巻の「嵐の記述」(1.311-50)は、ルクレティウスによる嵐の描写と密接に関連している(25)。この詩人は、嵐について次のように説明している(1.271ff.)。

まず第一に、風は力強く駆り立てられると、港を襲い、巨大な船を破壊し、雲を吹き払う。時には急速な旋風(turbine)をともなって平原を駆け抜けたかと思うと、野原に大木をまき散らし、森を粉砕するほどの暴風となって、高い山の頂まで震撼させる。このように、嵐は激しい響きを轟かせつつ荒れ狂い、恐怖の大音声をあげながら、吹きすさぶのだ。このことから、風の原子はたとえ目に見えなくとも、海や陸、天の雲を吹き動かし、突然の旋風(turbine)を起こしては、物を振動させ、奪い去ることは確かである。

この叙述を導入した狙いについては、詩人自らが次のように説明している(1.265ff.)。

ところで、事物は無から生じないこと、また、ひとたび生まれた物は無に帰することはありえない(26)、ということを私は説明したが、事物の原子が目で認識できないからといって、私の語る内容に不信感をもたないようにしてほしい。また、実在しているが、目で見ることができないと認めざるを得ない物が、事物には含まれるということを、よく理解してほしい。

ここに示される「無から生じる物はなく、無に帰す物もない」という考えは、エピクルスの死生観に関わる根本原理を表わしている。ルクレティウスは第三巻で「死の恐怖」を根拠なきものとして否定するが、第一巻、第二巻ではその前提条件としての原子論を子細に検討している。これを受ける形で、第三巻序歌では、死の恐怖追放というテーマの導入に関し、次のように説明している(3.31ff.)。

あらゆる事物を構成する原子とはどのようなものなのか、それらはどれほど多様な形態を備えて異なっており、自ら永遠の運動にかりたてられて飛び回っているのか、また各々の事物はどのようにしてこの原子から生み出されるのか、これらの点について私はすでに説明したが、今度は、この根拠に基づいて、精神と魂の本性について、私の詩句によって明らかにしなければならないと思われる。また人間の生活をその根底から震撼させ、暗黒の死によってすべてを覆いつくし、喜びを澄んだ清らかなものとしないアケロン(冥界)の恐怖は、ただちに追放しなければならない。

他方、エピクルスの理論を拒否する者に対しては、次のような批判が行われる(3.51ff.)。

彼らは、哀れにも、どこに行っても、犠牲を捧げたり、黒い家畜を殺したり、死者の霊に供物を捧げたりする。苦しい境遇に置かれると、いっそう熱心に心を宗教に向けるのだ。それゆえ、人を見るには、危機に陥った際に限る。逆境の中で人を見るのが好都合である。この時はじめて真実の声が胸の奥底から引き出され、仮面ははがれ、真相のみが残る。

 この表現との関連で注目されるのは、第六巻エピローグの「アテナイの疫病」の記述において、詩人が疫病の蔓延という危機に及んでの人間精神の脆弱さを浮き彫りにしている点である(6.1272ff.)。

死はついに神々を祀るあらゆる神聖な場所を、命なき死体で一杯にし、天上の者のためのあらゆる神域には、所狭しと死骸が積み上げられており、神殿の番人たちは、ここに客人をたくさん詰め込んだ。今や神々への信仰(religio divum)も、神意も尊重されなくなった。目の前の悲しみが勝っていたからである。常にこの国民の埋葬の習慣とされてきた習わしも、もはや都会には名残をとどめなくなっていた。というのも、国民は一人残らず恐怖にとらわれ、狼狽し、めいめい悲嘆にかられては、場当たり的に肉親の埋葬を行ったからである。切実で恐るべき貧困が多くの便法を教えてくれた。例えば、人々は大きな悲嘆の声を上げて、肉親の死体を他人の薪を組んだ上にのせ、松明に火をつけるのであった。死骸を置き去りにするよりは、むしろしばしば多量の血を流して争いながら。

 極度の恐怖が人間の宗教心を駆逐するというメッセージには、強烈なアイロニーが込められている。即ち、多くの人間は困難に直面すると熱心に宗教に傾倒するが、生きるか死ぬかの瀬戸際においては、いともやさしく敬神の念を忘却する。この点でトュキュディデスの描いたアテナイの疫病の記述(2.49ff.)が想起されるが、両者の観点は大きく異なる。トュキュディデスは歴史的事件として疫病を記述するのに対し、ルクレティウスは、死の恐怖を前にした人間の心の弱さ、迷信の脆弱さを批判する目的でこのエピソードを導入している。

 この詩人にとって重要なことは、各人がエピクルスの原子論を理解し、心の平静(アタラクシア)を実現することにある(cf.1.146-148)。この観点から、第二巻序歌では、内乱の渦中においてすら、心の平静を保ちうる賢者と、富と名誉を求めて争いを重ねる人間の対比を通じ、後者の生活が次のように批判されている(2.7ff.)。

何よりも喜ばしいことは、賢者の教えによって築かれた平穏な神殿にこもり、そこから他人を見下ろし、彼らが人生の道を求め、あちこちさまよっているのを眺めていられることである。人々は才能を競い、身分の上位を争い、日夜尋常ならぬ労苦をつくし、富の頂上を極め、権力を手中におさめんものと、あくせくしている。おお憐れむべき人の心よ、おお盲目なる精神よ。この短い一生が、なんという暗黒の生活の中、何と大きな危険の中で、過ごされていくことだろう。

この批判は第三巻序歌にも継承されるが、そこにおいては、諸悪の根源が死の恐怖であると断定される(3.59ff.)。

要するに、貪欲とか、栄達への盲目的願望は、憐れな人間を駆って法律の限度を越えさせ、時には罪悪の加担者、共犯者として、日夜甚だしい労苦をかけて権勢を極めようと努めさせるが、このような生活の疵は少なからず死の恐怖から育まれる。

ルクレティウスの説くところでは、人間はエピクルスの原子論を理解しない限り、死の恐怖に苦しむあまり迷信に捕われ、富や名声を求めては労苦を重ねていく。他方、ひとたびエピクルスの教えを正しく理解するなら、あらゆる恐怖から解放され、真の喜びを味わうことができるだろう。表現上、エピクルスの教えは、闇に輝く黄金の言葉(3.12 aurea dicta) として表現されるが、誤った考えにとらわれた人間の生き方には、暗黒のイメージが付与されている点が注目される。

 他方、第六巻においては、雷の生じる原因を原子論の立場から説明しているが(239ff.、その目的は、あくまでも人間精神を迷信から解放することにある。例えば、罪もない人間がなぜ炎に巻き込まれるのか、天空から来た旋風に突如として包まれ、火にさらわれてしまうのはなぜか、ユピテルはなぜ晴れたときに電光も雷鳴も地上に注がないのか、なぜ海に投げやりを落とすのか、と詩人は問いかける。もしユピテルが人間に罰を与えるために雷を落とすのなら、これらの実例はその仮定の誤りを如実に示すものといえるだろう。ルクレティウスは、また、なぜユピテルが神聖な社殿を、また自身を奉った住居を雷で震撼させ、神の像をくだき、自己の名誉を失うのかと問いただす。彼の主張は、全巻を通じて一貫している。即ち、地上の出来事に対する神々の介入を断固否定するという立場が終始認められるのである。

 初めにふれたように、従来ルクレティウスの描く嵐や雷の描写は、ウェルギリウスの「嵐の記述」に大きな影響を与えていることが指摘される。しかしながら、ウェルギリウスの表現を見ると、今見たルクレティウスの解釈と大きく異なる考え、即ち、(一)ユピテルこそ恐るべき嵐を引き起こす主体であること、また、(二)ユピテルは嵐の到来を予知できるよう事前に確かな兆を与えていること、の二点が強調されている。

(一)父なる神は漆黒の雷雲の中にあり、きらめく右手から雷電を放つ。その衝撃で大地は打ち震え、獣らは逃げ去り、世界中の人の心を恐怖が捕らえる。(1.328-31)

(二)我々が暑さと雨と、寒さを運んでくる風とを、確かな兆から予知しうるようにと、父なる神は、月々の月のめぐりが何を意味するか、南風が襲ってくるときにはどんな兆があるか、農夫らはいつもいかなる前兆を見て、家畜を小屋の近くへ連れていくべきかを定められた。(1.351 55)

対するルクレティウスの文脈では、徹頭徹尾、人間の抱く迷信が批判され、真の幸福(アタラクシア)実現のためには、自然法則を正しく理解すべきことが説かれていた。ウェルギリウスは、単に神を敬うよう求める(cf.1.338 in primis uenerare deos)だけでなく、より有効な労働を実現する目的で、自然界の法則性を正確につかむ必要性を強調しているのである。つまり理性(ratio)の働きの重要性は、双方認めつつも、観点がまるで異なることがわかる。

 この鋭い対比は、第二巻の「農耕賛歌」(2.458-542)において継承される。ここでは農夫の質朴な生活が都市生活者の暮らしと比較されているが、注目すべきことは、全体の中程でルクレティウスの自然観や幸福観に関して、「事物の因果関係を理解し、全ての恐怖と、祈りを聞き入れない運命と、貪欲なアケロンの喧噪とを足下に踏み敷くことのできたものは幸いである。」(2.490-492)と述べられる点である。これに対し、自らの立場は「田園の神々、パンや老いたシルウァヌス、ニンフの姉妹を知る者も幸せである。」(2.493-494)と表現している(27)。ここに示される幸福観の対置は、上に見た嵐をめぐる二人の詩人の異なる解釈を想起させるであろう。

 確かに「事物の因果関係を理解する」という態度そのものは、ウェルギリウスも積極的に評価しているが(28)、ルクレティウスのように、神の介入を否定したり、心の平静を実現する目的で重視するのではない(29)。一方、「田園の神々を知る」という表現は、この詩に見られる「神々への祈り」というモチーフと響きあう。例えば第一巻の「嵐の記述」では、豊穣の女神ケレスを称える祭りについて、次のように述べている(30)(1.338ff.。

まず第一に神々を敬え。冬の最後の日が終わり、晴れ渡った春が訪れたなら、豊かに茂った草の上で、偉大なるケレスに犠牲を捧げ、一年の感謝の祭りを行うがよい。そのとき羊は肥え太り、酒の味も最もまろやか。そのとき眠りは快く、山の中の木陰も濃い。農耕にたずさわる青年達よ、こぞってケレスに祈りを捧げよ。彼女のために蜂の巣を、乳と、芳醇な酒に浸せ。縁起のよい犠牲獣には、新しい作物のまわりを三度歩かせ、そのうしろに、仲間からなる全合唱隊が、喜びながら従い、歓声をあげてケレスを、家の中へと招き入れよ。実りもたわわな作物には、だれも鎌を入れてはならない。ケレスを称えて人々が樫の冠を頭に飾り、素朴な踊りを踊り、賛美の歌を歌うまでは。

この表現は、「農耕賛歌」に対応箇所をもつことが考えられる(2.519ff.)。

冬がくると、シキュオンのオリーブの実は圧搾器で砕かれ、豚は木の実を飽食して小屋に戻り、森は木苺の実を与えてくれる。秋はさまざまな果実を地に落とし、高く、日当たりのよい岩地の上では、葡萄がほどよく熟している。農夫のかわいい子供たちは、父の首にまとわり口づけを求め、汚れなき彼の妻は貞潔のしきたりを守る。牝牛は重く乳房を垂れ、豊かに茂った草の上では肥えた小山羊が、角と角を合わせて争っている。農夫自身は祭りを祝う。草の上に足を伸ばし、真ん中に火を置き、仲間達が酒杯に花づなを飾ると、神酒を捧げ、酒ぶねの神よ、あなたに呼びかける。つづいて羊飼いらのために投槍競技の的を楡の木に掲げ、農夫らは、草相撲をしようと、たくましい肉体をあらわにする。

酒ぶねの神、即ちリベルは、第一巻序歌の冒頭(1.7-9)で、ケレスとともに呼ばれていることからも、右に引用した二箇所の対応は十分計算されたものといえる。このとき、初めに触れたユピテルによる「黄金時代終結」のエピソードや、「神的助力」のモチーフも併せて想起されるであろう。

 これに対し、第三巻末の「ノリクムの疫病」においては、神への祈りも人間の技術も一切が無意味に思われる疫病の蔓延する世界が描かれている。まさしく「全ての恐怖と、祈りを聞き入れない運命と、貪欲なアケロンの喧噪」が主題となる世界である。ルクレティウスは、第六巻エピローグで同じ疫病をテーマにしながら、迷信の愚かさを批判していた。ウェルギリウスによれば、この詩人の立場は、「すべての恐怖を足下に踏み敷くことのできたがゆえに幸い」ということになる。では、ウェルギリウスは「ノリクムの疫病」において、同じテーマを扱いながら、いかなるメッセージを投げかけているのだろうか。

四 「ノリクムの疫病」の「矛盾」

 ウェルギリウスは、家畜の死に方に関して、次のように描写している(3.494-97)。

子牛たちは、豊かに茂る草(31)の至る所で命を落とし、一杯餌のはいった桶を前にして、愛すべき命を失っていく。狂犬病は大人しい犬を冒し、病気の豚は苦しい咳に苦しめられ、咽が腫れて窒息する。

一方、疫病の蔓延する中では、あらゆる価値が意味を失う。続く箇所では誉れ高き優勝馬が無惨にも倒れていく様子を描いている(498ff.)。

かつての優勝馬は、もはや駆けようとしても、倒れ込んでしまう。牧草を忘れ、泉にも背を向け、何度も蹄で大地をたたくばかり。耳は低く垂れ下がり、そこから汗が大量に流れ出す。そして死が近づくと、汗は冷たくなり、皮膚は乾き、手でさわっても固く強張っている。死の直前の数日間の兆候 (signa)(32)はこうしたものだ。

さらにこの馬の死については、次のように語られている(509ff.)。

咽に角の漏斗をさし込み、葡萄酒を流し込むことが効き目を表した(33) 。これが死から救い出す唯一の方法であるかに見えた。だがやがて、そうすることが破滅を招く結果となった。馬は狂気にかられ、激情に燃え上がり、そして今や、最後の苦しみに臨んで、――神々よ、敬虔な者たちにはよりよき運命を、あなた方の敵にこそかかる狂気を与えたまえ――歯をむき出しにし、自らの四肢をくいちぎり、引き裂いた。

 敬虔な者がなぜこのような目にあうのか、という憤りは、誰かれかまわず襲いかかる雷電を描いたルクレティウスの表現を想起させる。即ち、ルクレティウスによれば、雷は善人も悪人も無差別に襲うがゆえに、天罰というメッセージを伝えるものではありえない。嵐も雷も原子の運動の一形態に過ぎず、そこに人間を懲らしめようとする神意を認めることは、単なる迷信に過ぎないのである。他方、ウェルギリウスは、今見た競争馬の死の描写に続けて、農夫にとって忠実な牡牛の最期を次のように描いている(515ff.)。

見よ、雄牛が固いくびきの下で湯気を出して倒れていく。口から泡と一緒に血を吐き、最後の喘ぎを絞り出す。農夫は悲嘆にくれて通り過ぎる。そして兄弟の死を悲しんでいる子牛をくびきからはずし、仕事の途中で鋤を地面に埋め込んだままにする。深い森の影や柔らかい牧草地も、その心を動かすことはできない。石の上を流れ落ち、平原にそそぎ込む琥珀より清らかなせせらぎにもそれはできない。脇腹の奥にある内蔵が解けていき、麻痺感が力を失った両目を襲い、重さに耐えきれなくなった首は大地に向かってうなだれる。

 ここには農夫の悲しみばかりか、倒れゆく牡牛の兄弟の嘆きも描写されている。注意すべきことは、ここには、ルクレティウスの表現がいくつか暗示されている点である。ウェルギリウスの「口から泡と一緒に血を吐きだす」(516 mixtum spumis uomit ore cruorem)という表現は、ルクレティウスの「胸から温かい血の流れを吐き出し、倒れる」(2.353-4 concidit…/sanguinis exspirans calidum de pectore flumen)と関連し、さらに、「深い森の影や柔らかい牧草地も、その心を動かすことはできない。石の上を流れ落ち、平原にそそぎ込む琥珀より清らかなせせらぎにもそれはできない」(520-1 non umbrae altorum nemorum, non mollia possunt/prata mouere animum, non qui per saxa uolutus/purior electro campum petit amnis;)という表現も、同じくルクレティウスの「柔らかい柳の若枝も、露を帯びて豊かに伸びる牧草も、土手の緑をすれすれに流れる川も、母親の心を喜ばせることはない」(2.361-3 nec tenerae salices atque herbae rore uigentes/fluminaque illa queunt summis labentia ripis/oblectare animum.)と対応している。

 ルクレティウスは、原子の多様性を説明しながら、「同一種における個別性」といった問題にふれている(34)。そして「子が母を、母が子を見分けることができるのは、まさにこの原理に基づく」と述べ、その具体例として次のようなエピソードを物語る(2.352ff.。右の二つの表現は、この中に出てくるものである。

例えば、しばしば神々の見事な神殿の前で 子牛が犠牲のために殺され、香を焚いた祭壇の傍らに倒れ、胸からは熱い血潮がほとばしり出ることがある。子を奪われた母親は、緑の森を歩き回り、わが子の割れた蹄が地上に印した足跡を見つけると、なくした子をどこかに見つけ出せないものかと、辺りをくまなく探し歩く。立ち止まっては、木の葉で繁った森を嘆きの声で満たしたり、わが子に会いたい一念で、頻繁に小屋へ戻ったりもする。柔らかい柳の若枝も、露を帯びて青々とのびる牧草も、土手の緑を流れる川も、この母の心を喜ばせたり、突然生じた憂いを払うこともできない。豊かな牧場にいる他の子牛たちの姿が母の気を慰めたり、憂いから解き放つこともない。それほどまで、彼女は自分自身のもの、よく知ったものを探し求めるのである。

 ルクレティウスは、この表現を通じ、人間の宗教の犠牲となった子牛とその母親の悲劇性を印象的に伝えることに成功している。だが、同時にこの叙述は、第一巻序歌の後半(80-101)において、アガメムノンの娘イピゲネイアが犠牲として殺されるエピソードを思い出させる。その中では、「宗教(religio)とは、じつに、かくも甚だしい悪事を行なわせる力を持っていたのだ。」(101)と述べられており、「迷信批判」の姿勢は、ここにおいても明確に読みとることができる。

 一方、対応するウェルギリウスのテキストにおいて、詩人は牡牛の死に際について描写したあと、次のような見解を示している(525-30)。

労働と善行がいったい何の役に立つというのか。鋤で重い大地を耕したことが何になるというのか。マッシクスの酒や連日の宴会が、牛たちに害を与えたわけではない。彼らは木の葉やありふれた草を食料としただけである。飲み物は澄んだ泉の水と、競うように激しく流れる川の水。安らかな眠りを心労が打ち破ることもなかったのだ。

 すでに見たように、「労働と善行がいったい何の役に立つのか。」という詩人の問いかけは、一見作品の主題と矛盾するかに見える。事実、言葉の対応関係を見るとき、右の引用箇所は、田園世界の安らぎを描いた「農耕賛歌」の叙述を想起させる工夫を持つ。Thomas認めるように、「善行」(benefacta)は、2.515 meritosque iuuencosと響きあっているし、「安らかな眠りを心労が打ち破ることもない。」(3.530 )は、2.467 secura quiesおよび470 mollesque sub arbore somniと関連している。また、「マッシクスの美酒」(526-7)や「たびたびの宴」(527 epulae…repostae)という表現は、「農耕賛歌」に見られる都市生活者の志向する華美な暮らしを連想させる。「農耕賛歌」では、農夫の質実な生活が、国家繁栄を基礎づける要素としてポジティブに描かれる一方、都市生活者の富と名声を求める暮らしが国家を破滅に追いやる根源として批判される。つまり、「農耕賛歌」で評価される農夫の「労働」と「善行」は、作品全体の主張を見事に凝縮しているかに見える一方、第三巻エピローグでは、その美徳そのものの価値が疑われるのである。

 他方、今触れた「農耕賛歌」における都市生活の描写は、ルクレティウス第二巻序歌をモデルとしている点にも注目しなければならない。ルクレティウスは、「肉体にとって真に必要なものはわずかである」と述べたあと、次のように語っている(2.23ff.)。

たとえ夜毎の晩餐の席を明るく照らすために、燃える松明を右手に掲げた青年の黄金の彫像が、家中に飾られていなくても、また、客間が銀に光り、金に輝くことがなくとも、または手琴の音色が鏡板をはめこみ、黄金を張った天井にこだましなくても、これらは自然みずからが要求するものではない。

ここでは、黄金の輝きが人間の誤った生き方を象徴している。一方、先にふれたように、第三巻序歌においては、死の恐怖に苦しむ人間の暮らしが暗黒のイメージで描かれ、対するエピクルスの哲学は、真実の教えとして光のイメージを付与されていた(cf.3.1)。第三巻の序歌は、次の表現で締めくくられる(3.87-93)。

例えば、子供たち目の見えない暗闇の中では、おびえて何でも恐がるものだが、我々大人は、白昼においてすら、少しも恐るべきでないことに、恐れをなしている――それも、子供が暗闇の中で恐がり、今にも起こるかと想像するものと比べて少しも恐がるべきでないことに。従って、心のこの恐怖、即ち、暗黒は太陽の光や白昼の光線によってでなく、自然の姿と法則を学ぶことで払い去らねばならない。

 ルクレティウスにとって、エピクルスの教えは絶対である、とする素朴な信仰がある。誤った考え方を暗闇にたとえ、正しい考え方を光のイメージで表現する、というテクニック自体ごく自然なものとして受け取れる。そして、この姿勢が全巻を通じ微動だにしない点については、すでに見てきたとおりである。これに対し、ウェルギリウスは、第二巻エピローグでは、ルクレティウスにならって、富や名声を目指す生き方を批判し、質実な農夫の暮らしを賛美するものの、一方では第三巻末において、労働と祈りの無力を描くかのようである。この興味深い「矛盾」――ルクレティウスの一貫した叙述態度と対照的である――については、どのように解すればよいのだろうか。

五 ルクレティウスの叙述態度との相違

 ここで注意されることは、ウェルギリウスは歴史的事実として「ノリクムの疫病」を物語っている点、また、家畜の飼育者としての立場から疫病で死にゆく家畜の悲劇を描いている点である。前者に関していえば、このエピソードの冒頭には次のような表現が見られる(3.474-77)。

このことは、空高くそびえるアルプスとノリクムの村落、ティマウス川の流れるイアピュディアの広野に行くなら、よくわかるはずだ。長い年月を経た今は、かつての牧人の王国も、荒涼とした姿をとどめるのみ。長年にわたって無人の荒野が広がっている。

 他方、ルクレティウスの描く「アテナイの疫病」では、人間の貪欲さ、人の道も忘れた無節操な行いが、皮肉を込めて描かれていた。一方、ウェルギリウスの場合、疫病で倒れるのは人間でなく、忠実な家畜である点が注目に値する。家畜の死は、まるで飼い主の哀れみを誘うように、読者の胸を締め付ける。一方、農夫自身は、「苦労して土を熊手で掘り返し、自分の爪で種を埋め、高い丘を越えるにも、自らの首を痛めつつ、きしむ荷車を引いていったのだ。」(3.534-36)とも言われている。ウェルギリウスは疫病の恐怖だけでなく、人間の不屈の精神力を描くことを忘れていない。即ち、ここに見られる農夫の姿は、「農耕讃歌」で称えられる質実な農夫の姿を髣髴とさせるだろう(2.513ff.)。

農夫は、曲がった鋤で大地を耕す。これこそ年々の労働であり、ここから彼は祖国を支え、幼い孫たちと牝牛の群れと忠実な牡牛を、養い育ててゆけるのだ。

 農夫の労働が国家を支えるというモチーフは、「農耕讃歌」の末尾に見られる次の表現と関連している(2.532ff.)。

かつて、いにしえのサビニ人は、このような生活を営んでいた。これが、レムスとその兄弟の生活だった。このようにして、エトルリアは強大になり、ローマは七つの城塞を城壁で一つにつなぎ、この世で最も素晴らしいものとなったのである。

このローマの繁栄こそ、黄金時代を終結させたユピテルの狙いにほかならない。右に見た農夫の不屈の精神力とその労働は、人間精神を鍛えるために、農耕の道をわざと困難にしたと言われるユピテルの意志に適っている。次の比喩表現はこのような人間の労働の本質をうまく言い当てている(1.199ff.)。

万物は運命(fatis)によって、急速に悪い方へ、後方へと退化させられてしまう。あたかも流れに逆らって、力を込めて櫂で舟を漕ぐ人が、いささかでも腕をゆるめたら、たちまち流れにさらわれるように。

この引用箇所における「運命」(fatis )とは、ユピテルの意志の別名である。詩人は第一巻で、ユピテルの意志を説明しながら、次のように述べていた(1.145-6)。

こうして様々な技術が生まれた。過酷な状況において困窮が駆り立てながら、厳しい労働がすべての困難に打ち勝った。

つまり、第三巻末で描かれる「疫病」とは、「飢饉」(1.146ff.)、「嵐」(1.316ff.)と同様に、ユピテルが人間に与えた「過酷な状況」の具体例と考えられる。他方、第二巻の「イタリア賛歌」とは、人間の弛まぬ労働の結果達成されたローマの繁栄を称える箇所とみなせるだろう(35)。ウェルギリウスは、ローマの発展をふりかえり、次のように歌っている(2.167-174)。

この国は剛毅の民族、マルシ人、サベリ人、困苦に耐えるリグリア人、投槍で武装するウォルスキ人らを生んだ。さらに、デキウス家やマリウス家、偉大なるカミッルス家に加え、戦において容赦なきスキピオ家を生み、中でも最も偉大なる人、カエサルよ、あなたを生んだ。あなたは今やアジアの最果ての岸辺で勝利をおさめ、インド人を力無き者としてローマの城塞から遠ざけた。永久に栄えあれ、サトゥルヌスの大地よ、作物の大いなる母、勇士らの大いなる母よ。

ここでは、ローマ人の質実剛健さ――先に見た農夫の不屈の精神と響き合う――が、祖国の発展と繁栄を築いてきたとされている。

 先に「ノリクムの疫病」は歴史的事実として描かれている、と述べた。詩人の生きる時代から見た過去の出来事を描いている、という意味である。一方、第一巻エピローグでは、ローマの内乱が扱われているが、これも一つの歴史的事実の表現である。従来、第一巻と第三巻のエピローグは、それぞれが人間生活を脅かす要素(内乱と疫病の恐怖)を描く点で共通しているとみなされるが、第二巻の「イタリア賛歌」や「農耕讃歌」の視点から見るとき、これらの脅威は、過去において経験され、克服された出来事ということになる。裏を返せば、一見暗黒のイメージに映る第一巻と第三巻のエピローグも、単なる絶望の表明とばかりみなす必要はない。

 事実、第一巻エピローグにおいて、詩人は、農夫の労働に希望を託すかのように次のように述べている(1.493-97)。

必ずやその時が来るだろう。その場所で、農夫が曲がった鋤で大地を耕し、錆びた投槍を見出す時が、あるいは、重い熊手でうつろな兜を打つ時が、また、掘り返された墓の中に、大きな骨を見つけて驚く時が。

このうち、1.494 agricola incuruo terram molitus aratroは、先に言及した「農耕賛歌」における2.515 agricola incuruo terram dimouit aratroとほとんど一致した表現である点が注目される。詩人はさらに、ローマの平和を次のように祈っている(1.498-501)。

われらが父祖の神々よ、祖国の英雄たちよ、ロムルスよ、エトルリアのティベリスと、ローマのパラティウムを守る母ウェスタよ、少なくとも、この若者が、転覆した時代の救世主として乗り出すことを、禁じたもうな。

この若者とは、カエサル(=アウグストゥス)のことであり、一方の「イタリア賛歌」では、内乱を平定したカエサルの功績が称えられている。つまり、構成上第一巻末の詩人の祈りは、「イタリア賛歌」において叶えられるという形をとっている。他方、第三巻エピローグにおいても、絶望の中にあってなお、祭儀と労働を忘れない農夫の姿が次のように描かれる(531-36)。

この地方では、ユノの祭儀のためにほふる牛を探してもこの時だけは見つからず、ユノの神殿へは、不釣り合いな野牛が車を引いていったという。従って農夫らは苦労して熊手で大地を耕し、己がつめで作物を掘り返し、首に力を込めて高い山の上まで軋む車を引きずって登った。

農夫は絶望に直面しながらもなお神を信じ、ユノへの祭儀を執り行おうとあらゆる手段を尽くすのである。ルクレティウスは「アテナイの疫病」において、死の恐怖から容易に敬神の念を放棄する人間の軽薄さを糾弾したが、ウェルギリウスにおいては、それとは対照的に、労働と敬神を重んじる農夫の姿が一貫して描かれることになる。

 さらに、「ノリクムの疫病」の続く箇所では、次のように述べられている(36)(537-543)。

狼は羊小屋の周りで策略をめぐらすことをせず、夜通し、群の周りをうろつくこともない。より大きな恐怖が彼を支配しているからだ。臆病な鹿も、逃げ足の速い牡鹿も今は犬の間に混ざって、家の周りをさまよっている。今や広大な海の種族をはじめ、泳ぐことのできるあらゆる生物を、難破した死骸のように、波が浜辺に打ち寄せている。アザラシは、慣れない川の水へと逃れていく。

このうち、「飢えよりも大きな恐怖が支配している」という表現は、ルクレティウスにおける「もはや神々への信仰も、神意も尊重されなくなった。目の前の悲しみがまさっていたからである。」(6.1276-77)という表現を明瞭に示唆している。ルクレティウスの文脈においては、すでに確認したように、疫病に対して人間の抱く死の恐怖と迷信批判がテーマとなっているが、ウェルギリウスの場合、疫病に襲われた家畜や動物の恐怖を、飼い主の観点から描いている点に大きな相違がある。飼い主の観点とは、家畜への憐憫に加え、いかにして病を治すかという視点を意味している。右の引用箇所に続く表現(548-550)は、この立場を強く示唆する。

さらに牧草を変えてみても効果はない。処方箋 (artes) を求めても、害をなすばかり。当代切っての医者も匙を投げた。ピュッリュラの息子キロン、アミュタオンの息子メラムプスも。

 同様に、続く箇所では、家畜を人間生活に役立てる飼育者としての立場から、疫病による被害の種類が列挙され、こうして第三巻全体が締めくくられている(559-566)。

皮は使いものにならず、誰も死骸を水で始末できず、炎で焼き尽くすこともできなかった。人々は毛を刈り取ることさえできなかった。それは病毒と汚物で汚れていた。また病毒に冒された織物には、手を触れることができなかった。もしも誰かが向こう見ずに、その恐ろしい衣をまとうなら、熱を持った吹き出物を汚い汗が臭い四肢から一面に吹きだし、やがては呪いの火が、感染した人の全身を食いつくした。

ここでは、皮、肉、毛といった家畜から取れる製品が、いずれも病気で汚され、利用不可能であることが示されている。この観点は、全巻を通じ、より有効な農耕技術を物語ろうとする詩人の視点と一致するであろう。例えば、同じ第三巻の前半では、淘汰の技術に関して、次のようにいわれている(37)(3.66-71)。

(一)哀れな死すべき生き物にとって、各々の生涯の最良の日々はいち早く逃げ去る。病気と悲しい老年と苦しみが後に続き、厳しい死の非情さが(生を)奪い取る。(二)ところでその体を取り換えたいと思うものが常にあるだろうが、もちろんいつも取り替えなければならない。そして後で失ったものを嘆くことのないように、毎年群れのために新しい品種をあらかじめ選ばなければならない。

このうち(一)が掛け替えのない個の生をとらえた表現であるのに対し、(二)は、より効果的な農耕技術を伝えようとする詩人の立場を代弁している。加えて、「死は新たな生の始まり」とみなすルクレティウスの死生観を反映している点も見逃せない。ルクレティウスは、第一巻で、ある物の死から別の誕生を生む自然の摂理を説明しており(1.262-64)、この考えを根拠とし、死の恐怖が無意味であることを説くのである。他方、ウェルギリウスは、右に記した(一)において、ルクレティウスの死生観と正反対の見解、即ち「死は生の終わり」とする認識を示している。生死をめぐる二つのヴィジョンの提示は、第二巻「農耕賛歌」に見られた幸福観の対置と響き合うように思われる。

 実際、(一)における生のはかなさを感じ取る心は、ルクレティウスにとって無縁のもの、否、死の恐怖を助長するものとして批判すべき要素であったが、ウェルギリウスは、第三巻末の疫病の記述において、この観点から記述するのである。即ち、「労働と善行はいったい何の役に立つのか」という農夫の無念の叫びは、まさにこの立場からの表現とみなしうる。だが、詩人はあわせて、家畜を利用する人間の観点から疫病の被害を記述しており、この態度が(二)に対応すると考えられる。

六 結論――第三巻エピローグに込められたメッセージ

 すでに見たように、ルクレティウスは人間の理性(rario)の力を信じ、それをエピクルスの説くように用いることで、人間はまったき幸福(エピクルス派にとって「アタラクシア」と呼ばれる)を享受できると主張している。これに対して、ウェルギリウス自身、理性の重要性を認め、その応用としての技術の可能性について、きわめてポジティブな視点を示しつつも、なお、その限界を示すことを忘れてはいない。第三巻エピローグには、人間はいかなる技術を用いても、決して完全に自然現象を支配することはできない、という認識が示されているように思われる。換言すれば、一方で、人間は技術を用いなければ生きていけないこと、他方では、その技術は常に不完全である、といった矛盾した人間の条件が描かれることになる。先に触れた第一巻の小舟の比喩をここで思い出してよいかもしれない。

 この認識は、第一巻で描かれた「ユピテルの意志」と何ら矛盾するものではなく、もし矛盾があるように見えるとすれば、今触れた人間の技術や労働の二面性に起因すると考えられる。ウェルギリウスは、この矛盾を矛盾として描いているのであり、この点、ルクレティウスが、人間の生を正しい生き方と誤った生き方に二分し、前者を光のイメージで表し、後者を暗黒のイメージで描いたのと対照的である。『農耕詩』第三巻エピローグには、このような二人の詩人の叙述態度の相違が最も明瞭に認められるだろう。この対比自体、ウェルギリウスが意図的に示唆している点については、すでに確認した言葉の対応関係から見て自明である。事実、第三巻を締めくくる「呪いの火」(sacer ignis)という独特な言葉づかい一つとっても、ルクレティウスが第六巻660行で用いた表現と一致している。

 なるほどウェルギリウス自身、「祈りの無効」というモチーフを導入しているが、ルクレティウスのように、人間の敬神の念を一切否定するのではない。それは、このエピローグにおいて、労働や善行、技術の無効といったモチーフが認められるからといって、詩人がこれらの価値を否定していると即断できないのと同様である。ウェルギリウスは第三巻の前半において、いかにして優秀な競走馬を育てるべきか、牛の飼育はどうすべきかを詳細に語っているのだが、疫病の流行の前には日頃の丹精こめた飼育も何等意味をなさないことが明らかである。しかし、このことから、詩人が家畜の飼育に精を出す無意味さを主張している、言い換えれば人間の労働の無意味さを訴えている、とは考えられないのである。

 ウェルギリウスの独自性は、ルクレティウスが白と言ったところを黒と言い、黒と言ったところを白と言い直す形で認められるのではない。本稿で見てきたように、ウェルギリウスは、むしろ、人間の生きる条件――運命と言い換えてもよい――の矛盾や複雑さをありのままに描こうとしている。即ち、ルクレティウスが主張するように「祈りを聞かない運命を足下に踏み敷くこと」が決して容易ではない現実を描こうとしているように思われる。

 従来、第三巻のエピローグは、第一巻エピローグとともに、オプティミスティックな色調の第二巻エピローグ及び第四巻エピローグとコントラストをなすことが指摘される。本稿の立場から見ると、この各巻の明暗のコントラストそのものが、善悪を明暗で表現したルクレティウスの叙述技法を暗示するのではないか、とも推察されるのである。もっとも、今述べたように、ウェルギリウスは、このコントラストを通して何らかの価値判断の「対比」、「選択」を行おうとするのではなく、ただ現実とは、人間の思惑とは無関係に、明暗両面を備えている――空が晴れたり曇ったりする如く――という認識を示そうと努めているに過ぎない。しかしながら、このように計り知れない自然の営みにも一定の秩序が認められること、人間は人知を尽くしこの法則性を解きあかすよう促され、その成果を利用する形で文明社会を営々と築きあげてきたこと、また、その結果として今日のローマの繁栄が実現したこと、このようなウェルギリウス独自の歴史認識――次作『アエネイス』の主題となる――については、本稿において見る限り、全巻を通じて矛盾なく示されていることが窺える。詩人のローマを称える姿勢がいかにオプティミスティックに見えるとしても、裏を返せば、それだけ多くの困難をローマ人が経験してきたことを意味している。即ち、『アエネイス』の冒頭(1.33)における「ローマ民族を興すにはかくも大いなる苦しみがあったのだ」という詩人のメッセージをここで想起してよいかもしれない。本稿で検討した第三巻エピローグは、第一巻のエピローグと共に、ローマ人が過去において経験した無数の困難のひとこまを象徴しているように思われる。

テクストは、Mynors, R.A.B. (ed.), P. Vergili Maronis Opera, O.C.T., 1983 (1969), Bailey, C. (ed.), Lucreti De Rerum Natura, O.C.T., 1982 (1900)を用いた。本論文で参照した注解、研究は次の通りである。

Boyle, A.J., The Chaonian Dove, Leiden 1986.

Conington, J., Nettleship, H., The Works of Vergil, rev. by F.Haverfield, vol. I, 5th edn.1898.

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Liebeschuetz, W., Beast and Man in the Third Book of Virgil’s Georgics, G&R 12, 1965, 64-77.

Miles, G.B., Georgics 3.209-294: Amor and Civilization, CSCA 8, 1975, 177-197.s, R.A.B., Virgil: Georgics, Oxford 1990.

小川正広、『ウェルギリウス研究―ローマ詩人の創造―』、京都大学学術出版会(1994).

Otis,B. Virgil: A Study in Civilized Poetry, Oxford 1964.

Putnam, M.C.J., Virgil’s Poem of the Earth, Princeton 1979.

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Stehle, Virgil’s Georgics: The Threat of Sloth, TAPA 104, 1974, 347-369.

Thomas, R.F., Virgil: Georgics, Cambridge 1988.

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山下太郎、「ウェルギリウス『ゲオルギカ』―-文明国家ローマに生きる人間の課題-―」、『西洋古典論集』5、1988、37-58.

山下太郎、「Georgicaの独創性--「農耕賛歌」の解釈をめぐって--」、『西洋古典論集』6、1989、29-52.

山下太郎、「農耕詩における独創性の問題」、『人文』44、1996、57-78.

(1)『農耕詩』の「脱線話」の構成上の特色について、山下(1996)、注(1)参照。

(2)cf. Wilkinson, 206ff.言葉の細かな対応関係については、Williams, ad 3.502.

(3)本稿では、Williamsとともに、470から第三巻エピローグが始まるとみなす。一方、Mynorsのように、474から始まると見る立場、Thomasのように478からと考える立場もある。

(4)cf. Thomas, ad 470-1.

(5)3.525 quid labor aut benefacta iuuant?について、Thomas, ad 3.525は第四巻エピローグにおけるオルペウスの経験(エウリュディケを失ったこと、cf. 4.491-2 ibi omnis/effusus labor)との関連を指摘している。

(6)Thomas, ad 335-50によれば、この記述は魅力的に見えるが、現実の嵐の前には何の気休めにもならない、という。

(7)328以下と351以下の解釈については、小川、372以下参照。Miles, 93ff.は353 ipse paterにストア哲学の反映を認め、Cicero, DND 2.150-152を紹介している。

(8)この箇所について、小川、361以下は、ヘシオドス、ルクレティウスとの関連で詳細に論じている。

(9)この関連については、cf.Miles, 99.

(10)Johnston, 58ff.は黄金時代のテーマとの関連で、『農耕詩』における「鉄」(ferrum)使用例のヴァリエーションを調べている。

(11) 第一巻序歌に見られる「神的助力」のモチーフの考察について、山下(1988)、37-8参照。

(12)この表現に見られる「多様性のテーマ」については、Thomas, ad 1.53, 山下(1996)61-62参照。

(13)エピクルス派は「不安」(cura)のない生活を理想としている。他方、第四巻「アリスタエウス物語」において、curaをポジティブに解しうる可能性について、山下(1996)、69-71参照。

(14)Thomas, ad 3.549は、この表現を1.133 ut uarias usus meditando extunderet artis及び、1.145 tum uariae uenere artesと比べている。これらの例でポジティブに示されるarsは、第三巻エピローグにおいては、まるで功をそうしないばかりか、むしろ害を与える(nocent)と表現されている。

(15) 引用した箇所は、ルクレティウスの1.80-101、2.352-4の表現と関連していることが指摘されている。cf. Mynors, ad 486-93.

(16)Thomas, ad 486-93.

(17) 引用箇所において、causasは第二巻エピローグの490 causasと関連している。このエピローグで、詩人はルクレティウスの幸福観に言及し、「事物の因果関係(causas)を理解した者は幸せである。」と述べている。一方、Thomas, ad 3.440は、第四巻エピローグ(「アリスタエウス物語」)において、「病気の原因」を探るモチーフが重要な意味を持つ点に注意を向けている。この点に留意しつつ、ルクレティウスとの関連から「アリスタエウス物語」を解釈する論考として、山下(1996)、70参照。他方、signaは第一巻後半に頻出するキーワードとなっている(1.229, 239, 257, 263, 351, 354, 394, 439, 471)。

(18)454 alitur uitium uiuitque tegendoについて、Thomas, ad 454は、ルクレティウスの表現(4.1068)との関連を論じている。

(19)この表現(1.338)に関する解釈として、cf. Boyle, 49, Ross, 90ff., Miles, 99ff., 川、109以下及び、379-80参照。

(20)Thomas, ad 3.486-93.

(21)Williams, ad 1.338.(22)459 profuitは、技術の有効性を強調する。

(23)小川、155以下は、『農耕詩』をめぐる「オプティミスティック」な解釈と、「ペシミスティック」な解釈の伝統を整理し、この対立から必然的に浮き彫りになる「興味深い解釈上の矛盾」にスポットを当てている。ヘシオドスとの関連から、第二巻「イタリア賛歌」、「農耕賛歌」の解釈に新しい視点を導入している点が注目される。ただし、本稿で扱う第三巻エピローグについては、考察の直接的対象から外している。 

(24)cf.Thomas, ad 3.478-566.

(25)cf. Williams, ad 1.311-50, Thomas, ad 316 34.

(26)「何ものも無からは生じない」というエピクルス哲学の原理は、「農耕詩」における多様性のテーマと密接に関係する。この点については、山下(1996)62以下参照。

(27)小川、173-74によれば、「神々を知る」とは、神々の保護を求めることではなく、神々が人間に与える贈り物の有り難さだけでなく、それらの恐ろしさもよく認識することである、という。本稿では、このコントラストの意義を、ルクレティウスの叙述技法--善悪を明暗のコントラストで描こうとしている--との関連において考察しようと考える。他方、2.493-494に『牧歌』のキーワードが認められる点については、cf. Thomas, ad 475-94. Thomasはこの表現が詩人の過去の作品『牧歌』を暗示し、対する2.490-492が、今の作品、即ち『農耕詩』を暗示するという。第四巻エピローグとの関連において、この対置に、ウェルギリウスの詩作の道程の示唆を読み取る解釈として、山下(1996)、71-73参照。

(28)Thomas, ad 2.490は、この表現が、『農耕詩』を書いた詩人の本心を吐露したものとみなしている。即ち「自然法則の理解」こそ、この作品を貫く最も重要な主題と考えている。

(29)ルクレティウスとの見解の相違が示唆される点に関して、小川、380は、『万物の本質について』に対するウェルギリウスの反論の声を聞くことができる、と指摘している。

(30)Boyle, 49 n.29によれば、ウェルギリウスによるケレス祝祭の描写は、直前の335 metuensとの関連から見て、必ずしもオプティミスティックな色合いのみが描かれているとはいえないという。

(31)Boyle, 62ff.は、3.494 laetis in herbisと「農耕賛歌」における2.525 in gramine laetoのコントラストを指摘し、第二巻エピローグと第三巻エピローグの対比の意義を考えようとしている。他方、1.338 laetis…in herbisは、2.525と応する。Thomas, ad 1.339は、この対応を指摘した上で、第三巻エピローグは、この「豊かに茂った草の上で」疫病が蔓延し、家畜が倒れる様子を描いている点に注意を喚起している。

(32)ここで、3.440 signa doceboといった表現が想起されるが、文脈は大きく異なっている。

(33)Boyle, 62は、「ぶどう酒」(509-10 latices…Lenaeos)を表す語が、第二巻エピローグと対照的な文脈で使われていることに注意を喚起している。また、509 profuitは、3.459 profuit と対応するが、この引用箇所では、期待された治療法が、むしろ死を導く結果をもたらす点で、技術の限界を強調している。(34)この問題は、この詩の重要なテーマの一つ、「多様性のテーマ」と関連している。山下(19996)、62-64参照。

(35)「イタリア賛歌」の解釈として、Ross, 115ff., 小川、95-100、165以下参照。

(36)ここでは、一種の疑似黄金時代の様相が認められる。

(37)この箇所を「アリスタエウス物語」との関連から検討した考察として、山下(1996)、68-69参照。 

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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